柔らかな感触は夢の中で

 
 風の澄んだ音が冬の冷たい夜を包んでいた。あたりはひっそりとしていて、葉の擦れ合う音がよく聞こえる。その中に小さな囁きが二つ、耳に入る。
「……アイツら、寝てねえな」
「……そうだな」
 どうやら彰人も同じ音を聞いているらしい。
 アイツら、とは隣のテントにいる小豆沢と白石のことだろう。俺達と同じようにまだ眠っていないようで声が聞こえてくる。
 二人はこちらに気を遣っているのか小声でお喋りをしているみたいだが、風の音と森のさざめきしかないこの場所ではあまり意味はないかもしれない。内容までは聞き取れないが楽しげな雰囲気は伝わってくる。
 
 二人は何を話すのだろうか。学校の話、友達の話、家族の話。やはり音楽の話か。同じチームの仲間ではあるが、女性同士、何を話すのか見当がつかない。
 昔、そのことを彰人に聞くと「オレたちと同じだろ」と言っていたから性別はあまり関係ないのかもしれないがやはり分からない。
 
 二人の声は少し耳に入るだけで伝わるほど幸せな響きをしていた。
 何を話しているのか気になったが聞き耳を立てるのも良くないだろうと意識を隣の相棒に向ける。彰人は宙を見つめながら苦笑いを頬に浮かべていた。
「ったく、寝坊すんだろ……」
 仕方ないとばかりに眉を下げて呆れたような声を出すわりにトゲのない口調が彰人の心情を物語っている。
 なんとなく眠れない、という気持ちは分かる。小豆沢たちがひそひそと喋っては小さく笑っている声を聞きながら、手を意味もなく開いたり閉じたりしてみる。 
「冬弥、眠れそうか?」
「……ああ、ホットミルクのおかげでな」
 まぶたを閉じる気にはなれなかったが、そう返した。
 彰人は顔をこちらに向けそうかと零して、甘く蕩けた目を細めて笑った。その顔に先程飲んだホットミルクを思い出し、普段であれば遠ざける甘さがたまらなく欲しくなって焦がれる思いのまま手を伸ばす。
「……あたたかい」
 小さなテントの中、冬の冷たい空気から逃れるように寝袋を寄せて、思っていたよりも近い距離に嬉しくなる。
 触れた頬は予想よりずっと温かみを帯びていた。指先から彰人の体温が伝わって小さなカイロのように思える。それと同時に、その温度差に目を見張った。
「……オレは思ったよりお前の手が冷たいことに驚いてるよ」
「すまない……」
 寒いというわけではなかったが、どうやら俺の手はとても冷たいらしい。
 ピクリと肩を震わせモゾモゾと動く彰人に謝り名残惜しくも離そうとした手は、寝袋から出てきた手にいとも容易く捕らえられた。
 触れた手のひらは寝袋の中にあったとはいえ燃えるように熱い。熱があるのではないかと思わず尋ねると「いつもこうだよ」と彰人は眠そうにあくびをしながら応えた。なるほどと返して眠気を邪魔しないように緩く手を握る。
 
 こちらの方がよほどカイロみたいだ。懐に仕舞いたくなる欲をぐっと堪えて、ガラスのように冷えた指を絡めて気まぐれに握ったりしていれば、二人の温度差は和らいで心地よいぬくもりになる。されるがまま手を差し出す彰人に気をよくして、関節を確かめるよう触ったりぷにぷにと柔らかいところを探し出して押し込んでみたりと自由気ままに楽しんでいると、色気を含んだ小さな声が聞こえた。
「彰人?」
「っ……お前自覚ねえの、その触り方」
「?」
「……ねえならいいよ」
 普通に触っていたつもりだったがどうやら機嫌を損ねたらしく拗ねているような声が耳を擽る。
 つんと、彰人はそっぽを向いてしまったが手はそのままにしておいてくれるらしい。本気で怒っているわけではないと、ありがたく握らせてもらったまま愛しい癖っ毛を見つめる。
 
 寒風がテントを揺らしている。
 手の内のぬくもりを意識すれば眠気が襲ってくるが、なんとなくまぶたを閉じたくない。
 眠れないというより、眠りたくないのかもしれない。
 
 経験不足を嘆いてばかりではいられないと強く思った。与えられた環境が特殊であることは理解していたが、自分と他人とではこうも違う。
 今日は初めて経験することばかりで困惑も多かったが、何より、楽しくて仕方がなかった。こんなにも世界は知らないこと、面白いことで満ち満ちていて、クラシックに向き合うだけでは得られなかったものがたくさんあった。
 きっとこれからもこういうことがある、こういう楽しみを共有できる仲間がいる。その期待が、気分をソワソワとさせている気がした。
 
 そんなことをつらつらと考えていたら、不意に手を引かれて我に返った。彰人が握った手を離そうとしている。
 なんとなく駄々をこねたくなって、逃がすまいと引っ張ると彰人はそれとなく迷惑そうな調子で振り返った。
「もう温まったろ」
「……ああ」
「ん……さっさと寝ようぜ」
「……そうだな」
 眠そうな声に渋々手を離して、寝袋に潜り込んだ彰人に倣い同じように潜る。迷うことなく寝袋に仕舞われた手を見ながら、少しだけ寂しい気持ちになった。
 
 未練がましく彷徨わせた手を寝袋の中へ仕舞い、寝ることに集中する。
 外で寝るのは初めてだ。マット越しではあるが地面のなんとも言い難い心地は決して悪いものではなく、むしろ「これが母なる大地か」と納得するには十分なほど心を奪われてしまった。
 けれどやはりここは外で、敵はいないだろうが少し心許ない。
 
 寝袋についている簡易な枕に頬をつけ、寝ようとしている彰人の顔を見つめているとぱちりとまぶたが開いた。目が合うと、やっぱり眉を下げて困ったように微笑む。
「そんなに見られてたら眠りにくい」
「す、すまない…………彰人」
「んー」
「……やっぱり手を繋がないか」
 隣の彼女たちに聞こえないよう小さく紡いだ声が思いのほか必死で、それは彰人にも伝わったのか可笑しそうだ。ふはは、と空気が抜けたように笑われなんとなくばつが悪い。
 せめてもの抵抗に目線は逸らさずにいると諦めたのか、とろんとした目を隠してのそのそと起き上がった。
「寒いだろ、手だけ外に出してると」
「そうなんだが……こんなことめったにないから」
「はぁ……仕方ねえな」
 少し上体を起こして、ゴソゴソとバッグを漁る彰人を視界に入れるとポンと大きな布が飛んできた。広げてみると、どうやら今日彰人が着ていたものとは別の洋服のようだ。
「着るのか?」
「馬鹿、なんで着るんだよ。手に掛けておくんだよ」
 差し出された手を握ると彰人は握った手を隠すように洋服を上に掛けた。なるほどと感心してずらさないよう慎重に寝転ぶ。
 
 恋人のように指を絡めて、すっかりぬるくなった体温を分かち合う。誰に見られるわけでもないが、洋服の下で行われる営みは二人だけの秘め事のようだ。外でめったにしないことをしているからかムズムズと少しだけ変な気分になるが、だからといって到底離す気にもなれずその手を握り締めた。
 
 隣の声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
 彰人の手を触っている内に、その温かい存在に心が落ち着いてすぐに眠気が襲ってくる。
 抱き締めたらもっと温かいだろうなと思いながら緩く閉じていく視界に、彰人が少しだけ寒そうに震えたのが見えて、申し訳なさが今更になって沸き上がった。
「寒くなったら手離すからな、そんときは諦めろよ」
「ああ……悪かった。わがままを言って困らせてしまった」
「すげー今更だな……いいけどよ」 
 やっぱり彰人は優しい。最後はいつも笑って許してくれる。
 なんだかんだと言いながら世話を焼いたり気を遣ったりと、他人を尊重する選択をする。その最たる例が自分なのだと思うと喜ばしいやら申し訳ないやら、いろいろな感情が込み上げてくる。嫌だったら嫌だと言うだろうから大丈夫なのだと思うが、それでもやはり、俺のわがままを許してくれる彰人に嬉しくなった。
 
「あたたかい……」
「オレはぬるいっての……まあ、お前が眠れるならいいよ。眠れそうか?」
「ああ……」
「なんだよ、もう眠そうだな」
 彰人の声が遠くに聞こえる。優しい心地をもっと感じたくて、ほとんど力の入らない手を握り込むと指のはらで手の甲を撫でられた。
 やはり彰人は優しい。
「あきと……ありがとう……手を、にぎってくれて……」
「ん、いいよ」
 彰人の「眠いなら寝ろよ」という柔らかな声に導かれるように意識を飛ばしながらせめて挨拶はとかろうじて口を開く。
「おやすみ……」
「ん、おやすみ」
 甘く温かい気持ちがまぶたを重くさせ、穏やかな眠りへと誘い込む。
 逆らうことなくまぶたを閉じる中、彰人の顔がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
 きっとキスされると思いながらも眠気に逆らえず、唇の感覚を味わいながらまぶたを下ろした。
 
 キスのお返しは明日の朝、二人きりのときにしよう。
 そう決めて、そのまま深い眠りに落ちた。

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